先日書店でふとこちらの本を見つけて買ったのですが、
夜と霧の生きる意味についての問いについて、斎藤 環氏が
「固有性」という観点で読みなおしていたのが個人的にしっくりきました。

現代思想imago 総特集=ヴィクトール・E・フランクル現代思想imago 総特集=ヴィクトール・E・フランクル [ムック]
著者:ヴィクトール・E・フランクル
出版:青土社
(2013-03-18)

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ。(中略)もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ(『夜と霧』みすず書房)。

 「人生に果たして意味などあるのか」という問いに縛られている人は、自らの存在の固有性を捨て、われしらず特殊性に向かおうとしている。こうした問いを発しているとき、この人が言うところの「意味ある人生」とは、他人から称賛されるような人生、地位や名誉、経済力などにおいて他人より優れた人生を意味していることがほとんどだ
 それゆえにこの問いはすでに「意味などない」という結論が折り込み済みであるのみならず、自らの存在の固有性を特殊性(記述可能性、あるいは比較可能性)へと解体してしまいかねないという意味で、二重の危険をはらんでいる。にもかかわらず、多くの患者が―むろん患者に限らないが―こうした問いに釘付けになってしまう。
 「問い」の方向を変えること。これはけっしてトリッキーな言葉遊びなどではない。「人生から意味を問われている」と考えることは、意味の決定をなんらかの超越性に委ねる身振りを孕んでいる。そして「空虚さ」を巡る問いのほとんどは、この種の超越性(神などの超越性であってもよいが)に決定権を委譲するだけで半ば解決するのだ。(「フランクルは誰にイエスと言ったのか」斎藤 環)